12月8日、「恥辱の日」の戦争責任──「だましうち」になった真珠湾攻撃
昭和16年(西暦1941年)12月8日、日本は、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日米の開戦となりました。いわゆる「太平洋戦争」(大東亜戦争)の始まりです。
この時、宣戦布告の時間が遅れたのをご存知でしょうか。結果、日本は「だましうちをした卑怯な国」と避難されることとなりました。
宣戦布告文提出の時間を遅らせたのは誰だ?──危機意識なき大使館員の大罪
宣戦布告文の提出は、なぜ遅れたのでしょうか。誰のせいで遅れたのでしょうか。
日本の意に反した「だましうち」──日米開戦の真実
軍令部総長・永野修身は、昭和天皇に、「戦争は避難を浴びないよう堂々とやる」と奏上していました。しかし、午後1時(現地時間)の予定だった提出時間は、遅れに遅れ、2時20分となりました。実際には宣戦布告は遅れ、「だましうち」の形になってしまったのです。
宣戦布告が遅れたことは、米国で戦意高揚のため散々に宣伝されました。米国人の「一刻孤立の平和主義」は、一夜にして「リメンバー・パールハーバー」に変化しました。フランクリン・ルーズベルト大統領に、日本は良いプロパガンダのネタを与えたわけです。
正々堂々やるはずが「だましうち」になってしまったのです。
誰が宣戦布告時間を遅らせたのか──大使館員たちの失態
犯人は、当時の駐米大使館員です。宣戦布告前夜、同僚の送別会に参加して、作業に手間取り、宣戦布告が遅れたのです。
呆れる話です。当時は、日米交渉が頓挫し、いつ戦争が始まってもおかしくない状況でした。因みに、前日にはパイロットメッセージ(予告電報)で、「長文の外交文章を送るから、翌日米国側に渡せるように」と外務省は伝えていました。
のんきに送別会に出席していたというのだからふざけています。外務省から知らされていながら、当直すらおいていなかったというのだから、何をか言わんやです。
陸軍による妨害説を検証する──戦後史観の問題点
宣戦布告が遅れた理由は、大使館員がのんきに送別会に参加したためだと書きました。しかし、異説もあります。陸軍が真珠湾攻撃を成功させるため、わざと妨害し、外務省からの電報発信を遅らせたというものです。
これは戦後の、「陸軍は戦争を望んでいた、海軍と外務省は戦争を回避しようと努力していた」との史観が影響しているものと思われます。
しかし、この説は成り立ちません。大使館員が、真面目に仕事をしていたら、問題なく宣戦布告ができていたからです。現場がミス、それも大ミスをすること前提の説なのです。
もちろん、大使館員が送別会に行くことまで、陸軍が仕組んでいたのなら話は別ですが……。
機転の利かない大使館員たち──平常運転をしていた役人たち
大使館員は送別会に出席、宣戦布告は遅れました。
しかし、彼らが機転を利かせれば、送別会に出席しても、問題はありませんでした。
大使館員たちは何に時間をかけていたのでしょうか。タイプライターによる清書です。
しかし、清書をしなくてはならないなどという国際法は存在しません。走り書きでも、なんなら口頭伝達でもよかったのです。
この機転が彼らには利きませんでした。外務省内の「慣習」や「常識」に縛られていたのです。国が戦争という非常時に突入する時に、平常通り業務をこなしていたのです。
ますます、呆れる話です。彼らによって、日本は「卑怯な国」との汚名を着せられたのです。
外務省の戦争責任──12月8日を「恥辱の日」にした大罪を忘れるな
大使館員たちは、のんきに送別会に参加し、その失態を取り返す機転を利かすこともできませんでした。社会常識で言えば、これだけの大失態をしたら、首になってしかるべきだと誰もが思うのではないでしょうか。
彼らはどうなったか。ある人は「国連大使」、ある人は「外務次官」へと出世しました。それだけではありません。天皇陛下から勲一等を賜った人までいます。
東京裁判やその他戦勝国による裁判で、冤罪も含めて多くの人が「処刑」されました。しかし、12月8かを「恥辱の日」にした当時の在駐米大使館員たちは、生涯その責任を問われることなく出世街道を邁進したのです。
外務省は戦後、「恥辱の日」の責任者を出世させ、逆に杉原千畝のような真の国士を冷遇しました。
今後わたしたちは、いわゆる「太平洋戦争」を論じる時、「恥辱の日」の戦争責任も一緒に論じるべきです。
参考文献︰渡部昇一著『かくて昭和史は甦る 教科書が教えなかった真実』(PHP文庫、2015年)